「難解な英字新聞が読めるのにネイティブの子供が話す簡単な英語さえ分からないなんておかしい」説

英語はどんなに頑張ったからといっても明日から急にできるようになったりはしません。
そんなことは誰もが知っていると思います。
英語が母国語の人レベルを目標にすると、そこにたどり着くまでのあまりの遠さに圧倒されてしまいます。
目標を高く設定するのはいいのですが、あまりにもそれにこだわりすぎると、完璧主義に陥ってしまい無駄にコンプレックスを刺激されかねません。


例えば「難解な英字新聞が読めるのにネイティブの子供が話す簡単な英語さえ分からないなんておかしい」という話があります。
すなわち、難解な英字新聞が読める人はネイティブの子供が話す簡単な英語が理解できて当然である、ということです。
果たしてこの考え方は正しいのでしょうか?


1.何をもって“難解”“簡単”とするか
ある単語が簡単か難しいかを決めるには、さまざまな基準が考えられます。
そこで、「子供の話す簡単な英語」とは、誰でも知っている日常的な身の回りのことだと考えてみましょう。
つまり、「非日常的な単語をたくさん知っている人は、日常的な単語もたくさん知っていて当然だといえるか?」ということです。


当然だとされる背景としては、通常英語を学習するならば日常的な単語から始めて次第に非日常的な単語を覚えていくので、非日常的な単語が分かるようになる頃には日常的な単語はほぼ理解できるようになっているはず、という前提があります。


この前提は人によって当てはまる場合もあればそうでない場合もあります。
なぜなら、日常単語⇒非日常単語の流れは学習初期には成立するとしても、その後どんな単語を学習していくかは各自の学習背景によって異なるからです。


したがって、難解な英字新聞が読めるような学習をしていれば子供の話すことが分かる能力も同じ程度に高まって当然なのか?と聞かれれば、人によるでしょうね、と答えるしかありません。


2.難解な英字新聞が読めるなら、子供の話すことが分からなくてもいいのでは?
考えてみれば、難解な英字新聞が読めるというのは凄いことです。
子供の話すことが分からなくてもそれはそれで構わないと考えてはダメでしょうか。
これから分かるように練習すればいいのですから。


3.英字新聞が読めているというのは、本当に読めているのか?
そもそもこのような状況は例として出るほど起こりうるのでしょうか。
辞書を引きながらたどたどしく読んでいる段階なら、子供の話すことが分からなくても不思議ではありません。
かといって、難解な英文はスラスラ読めるのに“an apple”も“I'm hungry.”も聞き取れないということが、極端な例なんかではなく良くある現象として存在するのでしょうか。


もちろん“an apple”とかそんなレベルの話じゃなくて、向こうでは当たり前に使われているのに学校ではまるで教えない英語表現のことだよ!と思った人もいるでしょう。
しかし、これこそが学習者の不安を煽る典型的なコンプレックス商法のやり方そのまんまなのです。
もし日本の教育が変わって日本人がネイティブの子供の話すことを理解できる能力を優先的に身に付けるようにしたら、それはそれで「日本人はネイティブの子供レベルが精一杯で、知識人が読む英文が読めないなんて恥ずかしいですよ!」という本が売れるだけのことです。


「子供でも知っているのに」とわざわざ子供を引き合いに出すのは、基礎でもないものを基礎だと信じて自ら粗探しをするようなものです。
どれだけ英語を勉強したところで、知らないことは必ず残ります。
知らないことがあると認識するのは大事ですが、それ自体を恥じて、「子供でも知っていることを知らないなんて」と思うのは単なる完璧主義です。

ネイティブと比べなきゃ気が済まない

過度にネイティブを引き合いに出すあたりにも、本物の英語・リアルな英語と比べたら日本人が日本で一生懸命“お勉強”している英語なんて所詮偽者だよ、という完璧主義が見え隠れします。
たとえばこのシリーズ。

その英語、ネイティブはカチンときます
その英語、ネイティブにはこう聞こえます
その英語、ネイティブは笑ってます
その英語、品がありません―英会話本の英語、ネイティブが聞くと耳障り!


英語はただ文法や単語が規則どおり並んでいればいいのではなく、意図しないところで誤解されないためにも微妙な違いを理解しておかないとだめだよ、という指摘はためになります。
しかし、同じ学習するのでも「こうすればもっとよくなるよ」というほうが、「正しくはこうなんだけどバカなの?」というよりも比較にならないほど生産的です。
ゴールから逆算して何が足りないかを確認するのはもちろん大切です。
でも、いまプロ並みじゃないからといって自分の能力不足を卑下する必要がどこにあるのでしょうか。

英語は積み木とは違う

英語学習は積み木のようにはいきません。
積み木はそれぞれのパーツが一つ一つはっきり分かれていて、順番に積み上げていくことができます。
ところが英語の場合、単語と文法をまずそれぞれ完璧にして、次に音読と精読を仕上げて、それが終わったら次に多読して、というようにはいきません。
単語と文法を完璧にしてからでないと次の段階に進めないわけでもないし、完璧などということがそもそもありえないからです。
また、多読をすることで文法や単語の知識のココが足りないなということに気付いて、お互いフィードバックすることが当たり前だからです。


「文法書を1冊完璧にして」とか「単語帳を1冊仕上げたら」と何気なく言ってしまうところには、そういった積み木的な考え方が垣間見えたりします。
早い段階で英英辞典を使わないと英語を英語で理解できるようにならないとか、単語帳を使うと語義を間違って覚えるからダメだとか、そうした言い方も同じです。
ある単語と初めて出会ったのが英文中だろうが単語帳だろうが英英辞典だろうがなんだろうが、結局はさまざまな英文で何度も遭遇した結果ようやく単語を覚えるのです。
にもかかわらず、単語は初めて見たときに覚えるものだ、完璧にするのだと考えてしまうのです。



英語学習法によくあるこうしたちょっとした完璧主義は、おそらく効率優先の考え方が根底にあるからでしょう。
次のステージに進む前にこの項目を完璧にしておこう、そうすれば次の学習の効果が最大になる・無駄なく達成できる・修正する必要がなくなる、と考えてしまうのです。

完璧主義もほどほどに

完璧主義はそれ自体悪いものではありません。
やりすぎが良くないのです。
知らない単語がたくさんあることに気付くことは大切だけど、ネイティブの子供ができることは自分にもできて当然だと思い込まない。
自分の能力を客観的に見ることは大切だけど、発展途上の自分と完成型(というより別次元)のネイティブとを比較して自分を過度に卑下しない。
学習効率の最大化を図ることは大切だけど、最初から完璧を目指そうとして自分を過度に追い込まない。
大事なのはこんな当たり前のことです。