疑問のないところに理解はない

英語を勉強すると、単語や文法項目がどんな意味になるのかという知識がたくさん必要になります。
そして、最初にどうやってそうした知識と出会うかというと、2つの方法があります。


一つは、あらかじめ知識として受け入れてしまうやり方。
たとえば学校英語がこのパターンで、知識は知識としてひとまずそのまま受け入れる方法です。
もう一つは、量をこなす中で自力で意味を発見するやり方。
SSS多読方式がその代表といってもいいでしょう。
意味など分からなくても量をこなせば自ずと理解できるようになるという方法です。


単語や文法を自力で発見するよりは、辞書や文法書を使った方が学習時間が短くなりますから、英語学習者としては前者の方法が良さそうだということは間違いないと思います。

意味を先に受け入れる方法 自分で意味に気付く方法
‐抽出された情報を最初から与えられる ‐実際の英文から自力で抽出する
演繹的 帰納
例)学校英語 例)SSS多読方式

知識をどのように受け入れるか

ここで、受け入れる知識がどんな形で提示されると最適なのかが問題となります。


学校英語方式はどちらかといえば理解するより丸暗記が多いかもしれません。
また、英英辞書が勧められるのは、、単語を本来の意味で理解できるからです。
さらに、コアイメージは、辞書の用例の羅列を暗記するのではなくその根っこの意味を理解しようとする方法です。

意味を先に受け入れる方法 自分で意味に気付く方法
‐抽出された情報を最初から与えられる ‐実際の英文から自力で抽出する
演繹的 帰納
例)学校英語 例)SSS多読方式
例)英英辞書
例)コアイメージ

このように最初に与えられる知識にもいろいろな形があるわけですが、それではあらかじめ受け入れる知識は、どのようなものが優れているのでしょうか。

疑問のないところに理解はない

ここで最も重要なのは、「理解」とは一体何なのか、という点です。


最初に受け入れる知識が学校英語方式だろうが英英辞書の定義だろうがコアイメージだろうが、いずれもそのあとに大量の英語に触れる必要があるということを否定する人はいないと思います。
なぜなら、与えられた知識だけでは理解に至らないからです。
言い換えるなら、自分の中から疑問が生じてきて、それに答えが出ることで初めて知識や意味を理解したことになるからです。


最初のとっかかりである学校英語や英英辞書の定義やコアイメージからスタートして実際の英語に触れてみて、そこから自分の中に疑問が生まれてまたもとの定義に戻って、という行きつ戻りつのなかで最初に与えられた知識を少しずつ理解していくのです。


そういう意味では、学校英語の丸暗記はダメで英英辞典でなければならないとか、コアイメージで感覚を磨かないといけないとか、そうした議論は先ほどの表の左側だけでお互いの差異を主張しているだけに過ぎません。
そうではなくて横の関係で行ったり来たりして、抽出された情報を自分なりに展開して再び定義に戻ってみる、という学習の結果こそが知識を習得する・理解するということだと思います。

コアイメージは与えられて理解できるか

ハートで感じる英文法を読むと目から鱗の体験ができるのは、学校でなんだかわからないまま覚えさせられた英語の疑問をコアイメージが解きほぐしてくれてすっきりするからです。
このように、コアイメージにはあらかじめ自分なりの英語に対するイメージがある人が後付けで納得できる効果があることは確かです。
しかしながら、コアイメージでなければ真の理解はできないという万能論にはかなりの疑問が残ります。

(コアイメージに対して)…この他にも、より細かい点において、指摘しておく必要のあることが多くあります。以下において、箇条書き的にいくつかを記しておきます。


1.「イメージ」を「身につける」ということの定義が不明
著者の言うような「イメージ」を、知的に理解することを指しているのか、それとも自らの語感として内在化させるレベルを指しているのかがわかりません。
後者だとしたら、1・2の用例だけではとうてい達成できませんから、かなりの英語経験を積む必要があると思われますが、そうなると、「イメージ」も「学校文法」も学習者にとっての利便性という意味では大差がないということにはならないでしょうか。
地道にマジメに英語教育

コアイメージは単語の最終的な理解ではなくて、理解のきっかけに過ぎません。
だから、最初にコアイメージでネイティブの感覚を身に付ければあとは実際の英語で刷り込むだけ、という風にコアイメージ学習をとらえるのはおかしいのです。


また、コアイメージがあらかじめ単語に固有のものだと考えるのも極端ではないでしょうか。
例えばまったく逆の見方もできるからです。

単語・表現レベルの「意味」の側面で言えば、コンテキストごとに辞書でぴったりくる訳語を見つけて満足してしまう視点でなく、それぞれの単語の意味のコアをさがそうとする視点で学習することです。


…「帰納的学習」のポイントは、英語にあたるときに、いかに自分で帰納して英語の表現パターン、構文パターン、論理構造パターンを見つけるか、ネイティブの感覚で単語や意味のコアをつかむか、ということです。
究極の英語学習法

私はこの本には何の思い入れもないしこれはこれで極端だと考えますが、「単語にはそれぞれ固有のコアイメージがある」というのと同時に「実際の英文で使われている中から共通の要素を抽出したものがコアイメージ」だともいえると思っています。


言葉にはこの両方の性質があるのにもかかわらず、“単語に固有のコアイメージ”という側面だけを強調してしまうため、いきおい“最初にコアさえ理解すれば”という言い方になってしまうのでしょう。

抽出された情報の持つ危険性

英語に慣れた人が提示する抽出情報を、英語をこれから始める人がどう受け止めるのかというところには、実は隠れた危険性があります。


英語に慣れている人は、さまざまな単語や英語表現・文法項目に対して経験から導き出した自分なりの理解をしており、いわば自分の英語学習の結果として抽出情報を提示します。
例えば私がペーパーバックに出てくる話し言葉を羅列したのもそうだし、『私の英単語帳を公開します! 尾崎式の秘密』というのも作者なりの抽出情報の提示です。
こうした情報は、提示した学習者にとってはその時点での完成形であり、多読なり多聴なり多くの英語に触れてきた結果なわけです。


ところが英語をこれから始める人は、そうやって提示された抽出情報は完成された情報だから、それを読みさえすれば自分の理解も完璧になると思ってしまう、ここに誤解が生じる危険があるのです。


実際のところ、英語に慣れた人が提示した抽出情報というのは、英語をこれから始める人にとってはただのスタート地点に過ぎません。
したがって、抽出情報を提示するときには、筆者にとっては一つの完成形だけれども初学者が同じ理解に達するには筆者と同様に膨大な経験が必要だということを筆者自身が理解していることが大切になってきます。
そうしないと、筆者が苦労して経験から抽出した情報が全てで、それを理解すればOKだと言ってしまいかねないからです。


本当の理解というのは抽出された情報そのもので達成するのではなく苦労して経験する過程から得るものなのにもかかわらず、抽出情報を重視しすぎると「最初に理解を完璧にしておけば後は実践するだけでいい」、という極端な結論に達してしまう危険性をはらんでいるのです。

基礎は大事だけれども

英語に限らず、基礎が大事、基礎をおろそかにしてはいけないということがよく言われます。
これは確かにその通りで、疑う余地はありません。
ところが、あまりにも基礎が大事だと強調されすぎているせいで、“基礎を完璧にしないといけない”という風に誤解されている面もあります。


例えば、たいていの英語学習法は基礎から始めることを説いており、まずは単語と文法を完璧にすることを勧めます。
「文法書を○周して完璧にしてください」という言い方も一般的です。
しかし、当然ながら基礎を基礎だけで学習しても完璧にはなりません。
必ず応用に進んで自分なりの疑問と解法を持たない限り、完璧な理解などあり得ないのです。
基礎を固めない人が多いため基礎の大切さがとりあげられるというやむをえない部分もあるとは思いますが、基礎が大切だという点が必要以上に強調され、基礎が完璧にならないと応用に入ることができないというように理解するのは誤解でしょう。


あくまでも本当の理解は後からついてくるものだから、ひとまずはできる範囲内でざっくりと知識を入れることを基礎としよう、というスタンスで学習を始めるのが良いのではないかなと思います。